国友鉄砲鍛冶

緊急事態宣言発令前、4月21日、京都・東寺の弘法市が府か市の要請により中止となった為、せっかくなので滋賀県の長浜市にある国友鉄砲資料館へ伺ってきました。
(昨年から、弘法市も天神市も「イベント」と言う括りで中止に追い込まれています。行政的には安易に中止要請が出せる場所でしかないのでしょうが、これで生計を立ててる人々にとっては堪りません。この中止に伴う補償は飲食店の様なものは一切無く、出店者の生計は無視され続けています。実感として、この半年、若手の出店者の多くを見ていません。地方へ行っても年金受給世代の出店者が多くなり、この偏りはいずれ物づくりの手工芸の現場を衰退させると思います。)

国友鉄砲鍛冶_01

国友での鉄砲作りは室町時代において、足利幕府の依頼に始まります。
もともと湖北周辺では古代から製鉄と刀剣づくりが盛んでした。戦国時代、同じ長浜市内の「下坂の槍」等も有名で、鎌倉時代正宗の弟子として有名な貞宗なども、近江の湖東から湖北周辺出身と伝わります。彦根城傍の長曽祢は江戸時代初期の有名刀匠「長曽祢虎徹」ゆかりの地として井戸も現存しています。(ただし、虎徹はもっぱら江戸で作刀)
国友に鉄砲製作の依頼が来たのは、鉄生産力(鉄資源と燃料の木炭生産力)、銅などの調達能力、堅木による木台製作能力が揃っていたためと思われます。今でも、滋賀県の長浜から湖東地域は仏具の製作が盛んで、青銅製カラクリの製作技術・木工技術には困らなかったのでしょう。

国友鉄砲鍛冶_02
国友鉄砲鍛冶_03

火縄銃の作り方を初めて聞いたとき、正直、意味不明でした。わざわざ叩いて作る必要があったのか?
映画の「もののけ姫」に出て来る「石火矢」みたいなものは、「鋳造品」の形をしていますが、火縄銃は、「鍛造品」でした。日本人は、大筒まで鍛造で製作していきます。逆に、この当時の日本の鉄の性質では鋳鉄で作ることが不可能に近いものでした。
今でこそ作り方を理解していますが、20代頃だとまったく訳が分かりませんでしたね。

銃身の作り方はいたってシンプルで、タバコの巻紙と同じように鉄で筒を作ります。
最低ランクの火縄銃の銃身は、たったその程度の強度しかありませんでした。ただし、そのクラスの現存品は見たことがありません。刀剣でも言えますが、最低レベルのものは現存しにくく、戦国時代、足軽レベルに配給されていたような刀剣類火縄銃はほとんど目にする事はありません。
上位クラスでは、これが第一段階で、その筒を鉄の帯で巻き締めていきます。高級品になるにつれ、この鉄帯で巻く回数を2~3枚増やしてあります。
異常なのは、巻き締めた鉄帯は鍛接されていることで、これはなかなか根気のいる仕事です。何度となく炉の中へ銃身を入れ、部分部分で沸かしては叩き締め、鍛接を繰り返し、最終的にヤスリをかけて銃身の内外を整えて磨き、外形は8角形などにしていきました。
ただし、この一連の作業は作刀技術を修めてる者からしたら、全く無理難題でもなく、実際に、当時の人々は製作していましたし、量産化もしました。

国友鉄砲鍛冶_04
国友鉄砲鍛冶_05

当時のアジア諸国において、私の知る限り、伝来した火縄銃を模倣して作製、そして量産化に成功したのは日本だけでしたし、発明した欧州と比べても、安土桃山時代に生産量と精度で圧倒していきます。
量産可能になった背景にあるのは、当時が戦国時代で需要が多かったこと、室町時代から鉄が輸出品目に数えられるほど生産量が増えていた事、作刀技術が高度に成熟していた事などがあげられます。

鉄生産は、山の木々を倒して炭を作り、山肌を削って砂鉄を拾い、河川にその土砂が流れ込み川が氾濫、田畑の耕作に大きな影響をもたらします。
古来から森林経営・砂鉄集積に必要な労働力の確保、一部の人材を製鉄や鉄製品製作に従事させる事が出来る十分な税収や炭、製品の流通経路の整備など、統治者に政治力があり、バランスよく行える地域で刀の生産は盛んで、現在の岡山県の備前などはその代表と言えるでしょう。個人の能力だけでは儘なりません。
種子島で初めて火縄銃が複製されたと伝わりますが、その価格は一丁当たり現在の貨幣価値で10億円程度だったとも言われています。そして京都の幕府に伝わり、国友へ製作依頼が舞い込みました。京都山城鍛冶では応仁の乱の戦災で満足な刀鍛冶集団を賄えなかったのでしょう。

国友はその後、鉄砲鍛冶集団として江戸時代を過ごしていきます。この地は幕府直轄の「天領」とされ彦根藩には属さず、また、自治は鉄砲鍛冶工房が組織した寄り合いによって行われて行きます。
江戸時代初期には恵まれた一方で、財政難と平和故に、幕府からの注文は減少の一途をたどり、工房経営は厳しくなり数を減らしていきます。経営環境が厳しくなる中で刃物生産なども手掛けていたようですが、国友村の立地が悪いのと、鍛冶製品生産の現場におそらく豪商と呼べる人々が欠如していた影響が大きくあり、今現在では鍛冶の名残は資料館でしか見る事が出来ません。

国友鉄砲鍛冶_06