大和郡山・現代工芸フェア ちんゆいそだてぐさ

2022年5月21日(土)・22日(日)
奈良県大和郡山市『現代工芸フェア・ちんゆい そだてぐさ』

今回、5月21日の弘法市をお休みして奈良県大和郡山市のイベントに出店してきました。
奈良というと、平城京・東大寺のイメージで、県庁所在地はそれらがある奈良市ですが、奈良県下(大和国)で江戸時代最大の城下町は大和郡山市の郡山城下になります。
イベント会場は、郡山城の主郭と言っていいでしょう内堀内の一角、追手門周辺で行われました。

大和郡山・現代工芸フェア ちんゆいそだてぐさ_01

イベント規模はそれほど大きくないですが、90店程度は出展されているでしょう。
お城の城門や櫓付近のスペースを利用して各ブースが割り振りされました。
天気にも恵まれ非常に心地いい2日間となり、多くのお客様に足をお運びいただき大変ありがとうございました。

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(Sugamaさんの作品・・伊賀焼)

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(MikuSakaguchiさんの作品)

このイベントの特徴というか、出店して感じた印象は、器にかかわる出店が多く、若手陶磁器作家さんが目立ちました。また、大変にぎやかな「何か」も行われていたようで、お祭り好きな方にとっても有意義な時間が過ごせたのではないかと思います。

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(Woodturnerさんの作品)

さて、会場は(大和)郡山城主郭部なので、どうしても駐車場から距離は離れてしまいますが、それ故に、身をもってこの郡山城のスケールを味わう事が出来ます。
大和郡山城は、大坂夏の陣の際に大野治房勢によって落城してしまいますが、それはお城の防御力が問題ではなく、城の管理を任されていた守勢の筒井定慶が戦場放棄した結果によるものでした。
豊臣秀長の居城として設計されただけに、郡山城郭は非常に巨大であり、今日お城跡として一般認識されている部分は内堀内の一部でしかなく、中堀・外堀・総構えが設けられ、その痕跡も多少は残されています。

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現在の大和郡山城址の図。
内堀は多くが残り、二の丸跡に高校が建つ。外堀は若干残され、中堀は名残の水路が残る程度。

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内堀。

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天守跡から追手門周辺イベント会場方面を望む。本丸周囲の堀も広く深い。

大坂の陣であっさり落城した郡山城は、脆弱な城と誤解される場合もありますが、現地に立ってみると、中堀内堀内にでも筒井勢と有志1000人余りと避難した領民が立て籠もっても、徳川勢着陣まで十分耐えうる造りだった事がうかがい知れます。そもそも、大阪方大野治房勢は2000人余りでしかなく、とてもではないですが攻め落とせるだけの勢力ではありません。
しかし、筒井勢は敵勢力を過大評価し1000人程度では大きすぎて守れないと考えたのか、自分らが籠るのに適した規模の自城へ移ってしまい、周辺地域は無防備状態となってしまいます。
結果として、大阪方は郡山城と城下を焼き払い、奈良市方面まで進軍その門前町や集落などを焼き討ちし混乱をもたらしました。
そして、筒井定慶は大坂の陣の後に、この判断の誤りを悔い自害したと伝わります。戦国時代真っ只中であれば、取られたら取り返す程度の事ですが、近世に入る最中では、行政官や統治者として挽回の余地がありませんでした。
大坂の陣後は水野勝成から始まり、柳沢家(15万石)に至るまで歴代藩主らによって復興と地域産業育成が行われ、この地域で伝統産業が育まれてきました。

出店の記録

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